城で兵士たちが火のついたような大騒ぎを始めた頃、二人は既に国を囲う防壁も越えて、遠く離れた草はらを駆けていた。正確に言うと、駆けているのは一人だけで、もう一人はその背中に背負われていたのだが。
「――どこに、向かっているのですか?」
背中の女が、自分を背負う男に尋ねる。
「ノースポートだ」
かなり速いペースで走っているにもかかわらず、男は汗ばむ気配もなく、呼吸一つ乱していなかった。辺りは月明かりに充ち溢れ、時折吹く風が、いくつもの流れとなって草原を薙いでいく。人の気配は全く無く、アイジスティアの灯りも、遥か後ろのほうに遠ざかって見える。
「綺麗ですね……」
女がそう話しかけたものの、男は何も答えてはくれなかった。前から押し寄せる風に、銀髪がなびいている。
黙り込んだまま、彼女は、最初に男が部屋に押し入ってきたときの、無理やり感情を押し殺したような、表情な紅い目を思い浮かべた。不思議と、恐ろしさの中に、どこか物悲しい気配が漂っていると思ったものだ。
「あの……」
躊躇いがちに、再び話しかけてみる。
「なんだ」
面倒くさそうな声が、それに答えた。
「お名前を、教えていただけますか?」
「……“黒い風”と呼ばれている」
「そんなものじゃなくて、本当のお名前です」
男が、ちらと振り返った。
「聞いてどうする」
「お呼びするときに困りますわ」
「…………」
静かになると、耳元を過ぎる風の音が大きく聞こえる。女は、このまま男が喋り出さないのではないかと思った。あまりにも長い時間、男が黙っていたからだ。
だが、やがて男は口を開いてこう言った。
「ヴァンツァーだ」
「ヴァンツァー……」
もう一度、記憶に刻み込もうとするように、その名前を呟く。この辺りでは珍しい名前だ。
「私の名前は――、」
「知っている。 アーメリア・フォン・ヴァイスハイト。 アイジスティア国王、アレクシウス・フォン・ヴァイスハイトの一人娘」
女が、ちょっと驚いたように目を見張った。だが、すぐに気を取り直して、こう言う。
「アマリアと呼んでください」
「アマリア?」
また、男が振り返った。女が頷く。
「ええ、城の皆にはそう呼ばれていたので」
いつの間にか、彼女の中の、男を恐ろしいと思う感情は薄れていた。背負われている背中から伝わってくる、人間らしい、温かい体温のせいかもしれない。
ゆっくりと、辺りを見回す。
月の光は草原を満たし、夜空は流れる雲の模様までわかるほど明るかった。流れる風と、過ぎゆく景色だけが、かろうじて、走っているということを思い出させる。
やがてアマリアは、自分でも知らないうちに、男の背中に体を預け、眠りに落ちていた。
「――どこに、向かっているのですか?」
背中の女が、自分を背負う男に尋ねる。
「ノースポートだ」
かなり速いペースで走っているにもかかわらず、男は汗ばむ気配もなく、呼吸一つ乱していなかった。辺りは月明かりに充ち溢れ、時折吹く風が、いくつもの流れとなって草原を薙いでいく。人の気配は全く無く、アイジスティアの灯りも、遥か後ろのほうに遠ざかって見える。
「綺麗ですね……」
女がそう話しかけたものの、男は何も答えてはくれなかった。前から押し寄せる風に、銀髪がなびいている。
黙り込んだまま、彼女は、最初に男が部屋に押し入ってきたときの、無理やり感情を押し殺したような、表情な紅い目を思い浮かべた。不思議と、恐ろしさの中に、どこか物悲しい気配が漂っていると思ったものだ。
「あの……」
躊躇いがちに、再び話しかけてみる。
「なんだ」
面倒くさそうな声が、それに答えた。
「お名前を、教えていただけますか?」
「……“黒い風”と呼ばれている」
「そんなものじゃなくて、本当のお名前です」
男が、ちらと振り返った。
「聞いてどうする」
「お呼びするときに困りますわ」
「…………」
静かになると、耳元を過ぎる風の音が大きく聞こえる。女は、このまま男が喋り出さないのではないかと思った。あまりにも長い時間、男が黙っていたからだ。
だが、やがて男は口を開いてこう言った。
「ヴァンツァーだ」
「ヴァンツァー……」
もう一度、記憶に刻み込もうとするように、その名前を呟く。この辺りでは珍しい名前だ。
「私の名前は――、」
「知っている。 アーメリア・フォン・ヴァイスハイト。 アイジスティア国王、アレクシウス・フォン・ヴァイスハイトの一人娘」
女が、ちょっと驚いたように目を見張った。だが、すぐに気を取り直して、こう言う。
「アマリアと呼んでください」
「アマリア?」
また、男が振り返った。女が頷く。
「ええ、城の皆にはそう呼ばれていたので」
いつの間にか、彼女の中の、男を恐ろしいと思う感情は薄れていた。背負われている背中から伝わってくる、人間らしい、温かい体温のせいかもしれない。
ゆっくりと、辺りを見回す。
月の光は草原を満たし、夜空は流れる雲の模様までわかるほど明るかった。流れる風と、過ぎゆく景色だけが、かろうじて、走っているということを思い出させる。
やがてアマリアは、自分でも知らないうちに、男の背中に体を預け、眠りに落ちていた。
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