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第三十八話
突然現れた大蜘蛛に、ニーナは悲鳴をあげ、ハーメルも絶句した。
だが、よく見てみると様子がおかしい。湿った地面の上に崩れ落ちた大蜘蛛は、口から泡を吹き、全身を激しく痙攣させていた。切断された脚と、穴のあいた腹からは、ぼとぼとと体液をこぼしている。

鼻を突くような悪臭に顔をしかめながら、ハーメルは蜘蛛が飛び込んできた方角にじっと目を凝らしていた。これほど鮮やかな手際で蜘蛛を仕留めた人物に、心当たりがあったからだ。

思ったとおり、ほどなくして霧の向こうから、二人の人影が現れた。銀髪と、黒髪の、二人組だ。黒髪の娘の方は、手元に自分の帽子を抱えている。

「ヴァンツァー! アマリア!」

歓喜の叫び声を上げたハーメルを、ヴァンツァーとアマリアが見上げた。

「ハーメル!」

アマリアが嬉しそうな声を上げる。その横で鬱陶しそうな顔で自分を見上げるヴァンツァーを見て、思わずハーメルは笑い出しそうになった。この濃霧の中でこうも都合よくまた巡り合うことがあるかと思ったが、どうやら本人で間違いないらしい。

その横に目を移したヴァンツァーが、さらに嫌なものを見た顔になる。

「……何故、お前がここにいる?」

ニーナのことだ。だが、敵意を持っているのはお互い様だ。ヴァンツァーと比べ、ニーナも負けず劣らず嫌そうな顔をしている。

「なんだ、ハーメル、お前、あんな野郎の仲間だったのかよ」
「断じて、仲間では無い」

げんなりと言ったニーナの言葉を、これ以上ないほどきっぱりとヴァンツァーが否定する。

「冷たいですね」

それを聞いて、ハーメルが苦笑を浮かべた。アマリアはヴァンツァーの横で、おろおろと視線をさ迷わせている。

「ヴァンツァー、早く二人とも、助けてあげて」

ついにアマリアに言われて、ヴァンツァーがため息をついた。だが、言われたことに逆らうつもりはないらしい。半ば投げ遣りな仕草で、右手を振り下ろす。

見る間に空中に風の刃が現れて、蜘蛛の糸を断ち切った。だが、ヴァンツァーが切断したのは、二人を吊るしていた糸と、ハーメルの身体に巻きついていた糸だけだ。両手足が自由になったハーメルは、さほど高くない位置から上手に地面の上に降り立ったが、ニーナの方は縛られたまま落ちた。

「ぎゃっ」

頭から落ちたニーナが、悲鳴をあげて、痛そうに縛られたままの体をくねらせる。さながら巨大な芋虫のようだ。
それを指さして、ヴァンツァーがもう一度訊ねた。

「本当にこいつも助けるのか」
「お願いします」

ハーメルが頼み込んで、アマリアも真剣な顔で頷く。
もう一度ため息をついたヴァンツァーが、再び右腕を振るった。
巻き起こった風が、瞬く間にニーナの身体に纏わりついた糸を切り落とす。

「このやろっ! よくもやりやがったな!」

自由になった左手で痛そうに額を押さえながら、ニーナがヴァンツァーに掴みかかった。

「礼の一つでも、言ったらどうだ」

胸倉を取られたまま、ヴァンツァーが応じる。

そのとき、急に辺りに、耳をつんざくような悲鳴が響きわたった。
アマリアの心臓が、どきりと飛び跳ねる。

音の出所はどこかと見回した一同が、それを突き止めるよりも早く、ヴァンツァーの右手から放たれた風弾が、向こうで倒れていた蜘蛛に直撃した。くぐもった呻き声を残して、悲鳴がぴたりと止まる。

「まだ生きていたんですか……」

ハーメルが、青ざめた顔でつぶやく。

しかし、悲鳴が止まっても、動悸がするような、嫌な感じはなくならなかった。
先ほどまでは静まり返っていた森に、今はどこか押し潰そうと迫ってくるような気配がある。

ほどなく、四人の立っている地面が小刻みに振動を始めた。

第七話
「寒いわ」

呟いたリーシャが、ルーファスの衣を自分の方に手繰り寄せた。

「砂漠の夜が寒いのは当たり前だよ」

ルーファスは、呆れたように言いながらも、されるがままになっている。

砂漠の都を出てから三日目。目指すラスカザにはもうじき着くかという頃だ。
今日も二人の野宿は砂の上で、ボーボー鳥のボブはすでに自分の羽の下に頭を潜り込ませて、くうくうと寝息を立てている。

「夜が寒いってことぐらい、私だって知っているわよ」

リーシャが口を尖らせて抗議しながら、ルーファスの衣をさらに引っ張って自分の体にも巻きつける。二人の身体がぴたりとくっつく形になったが、黒髪の少女にはさして気にする様子もなかった。

乾いた空気はこれ以上ないほど澄んだ空気をもたらし、砂漠の星空に浮かぶ満月には、幻想的な光の輪が掛かっている。辺りは物音一つせず、時が止まったような砂の海が横たわっているだけだ。

「ねえ」
「うん?」

しばらく経った後リーシャに呼びかけられて、まどろんでいたルーファスが緑の目を開いた。

「ルーは、何のためにお寺を廻っているの?」
「法皇様は見聞を広めて、立派な僧になるためって仰ったけど……」
「ふーん」

自分で聞いた割に、リーシャが気のなさそうな返事をする。

砂漠は静かすぎるほど静かだ。こんなとき、北国で育ったルーファスには、夜に聞こえる眠鳥の声が恋しくなる。だが、いま彼の隣りには、黒髪の可愛らしい少女がいた。少なくとも寂しいことは無い。

「じゃあさ。 ルーは、自分で僧になりたいと思ったわけ?」

顔を覗き込んで聞いてくるリーシャに若干の気恥ずかしさを覚えながら、今度はルーファスも即答せずに考え込んだ。金色の髪が俯いた拍子に揺れる。

「……どうだろう。 あんまり考えたことなかった。 なりたいと言うより……」
「なる道しかなかった?」

言葉を継いでくるリーシャに、ルーファスは釈然としないまま頷いた。他に丁度いい言い方が無かったからだ。

「もっと、他の自分になりたいとか、そういうこと考えなかったわけ?」
「それは、あんまり……」

実際、彼には今までそういうことを考えたことはなかった。今リーシャに聞かれて、そういう考え方もあるのかと面喰ったほどだ。
言いよどんだルーファスを見て、リーシャは鼻から息を吐いた。すん、と小さく音がする。

「そう。 まあ、そういう人もいるのかも知れないわね」

それきりそっぽを向いて、もう喋る気配も無い。
その後ろ姿に、何か申し訳ないものを感じながら、ルーファスもまた、ゆっくりと目を閉じた。



第三十七話
宙吊りにされた赤毛の娘が、同じく隣で吊るされているハーメルに話しかけた。

「なあ」
「はい?」
「あたしたち、生きてここから出られるのかな」

何気ないような言い方の陰に、不安が見える。ハーメルが、困ったように少し笑った。

「生きている限りは、希望を失わないようにすることが肝心ですよ」

そうは言ったものの、彼にも自信が無い。こんな状況に陥ったことは、長旅の中でも殆ど無いからだ。
ただ、先ほど大蜘蛛に一撃を喰らった時に死ぬ覚悟を決めたせいか、彼の心は不思議と落ち着いていた。

隣の赤毛の娘は俯いたままだ。
手が届くのならば頭でも撫でてやりたいところだが、縛られていてはそうもいかない。
その代りにハーメルは、彼女にこう話しかけた。

「ちょっと、お嬢さん」
「ニーナだ」

その様子を見て、ハーメルは思わず微笑んだ。こんなときでも、わずかに頬を染めて顔を逸らすところは、いかにも年頃の娘らしい。

「では、ニーナさん」
「なんだよ」

ニーナがそっぽを向いたまま、ぶっきら棒に返事をする。

「お仲間はどうされました?」

むしろ塞ぐ気を逸らす為に、何気なく訊いたつもりだったのだが、その瞬間ハーメルは、尋ねたことを後悔した。ニーナの背中が、一瞬にして凍りついたように見えたからだ。

次に話し始めた彼女の声は、先ほどの声とはかけ離れたものだった。か細い、弱々しい声だ。

「……あいつら、大丈夫かなあ?」

震えるその背中に、ハーメルは声をかけることが出来なかった。ただじっと見つめるだけだ。

「あたしら、アイジスティアの兵士たちに追い立てられてこの森に入っちまったんだ。 あたし一人じゃあ、皆を守ってやることなんかできなかった」

ついに声が涙声になった。今までずっと、不安な思いを抑えつけていたのだろう。こぼれる涙を何とかしようと、懸命に歯を食いしばる。

「……やっぱり、あたしじゃあ駄目なんだ。 もしかすると、みんな死んじゃったかもしれない」

一度流れだした不安は、止まることを知らなかった。身を震わせたまま、まるで懺悔をするようにあふれ出る言葉を紡ぐニーナは、盗賊団の頭目と言うよりは、むしろただの娘に見えた。自分の仲間を失ってしまったかもしれないことを、恐れ嘆くただの娘だ。

急にハーメルの心の中に、彼女を不憫に思う気持ちが湧き起こった。先ほどまではやはり、どうやったらここを抜け出せるかということばかりが念頭を占めていたのだ。

「大丈夫ですよ!」

突然ハーメルが大声で叫んで、ニーナは驚いて彼の方を振り返った。涙で濡れた金の瞳を、青い目が驚くほど真剣に見つめている。

だが、彼自身も、自分の行動に呆気に取られたようだった。ぽかんと口を開けたまま、後の言葉が続かない。やがて、照れたように笑うと、

「大丈夫ですよ。 お仲間はきっと生きてる」

そう言い直した。
呆然としてハーメルのことを見ていたニーナが、鼻をすすって、にやりと笑う。

「なんだか、お前って、変な奴だな」
「ちなみに私の名前は、変な奴ではなく、ハーメルと言うんですがね」

ハーメルも笑い返す。

その瞬間爆発のような音がして、二人のいる広場に恐ろしい大蜘蛛が飛び込んできた。



第三十六話
悲鳴をあげて倒れたアマリアを、今度はヴァンツァーが無理矢理引き起こして背後に庇った。

一旦は二人の頭上を通り過ぎた大蜘蛛が、ぬかるみの上を横滑りして、八つの赤い目をぞろりと揃えて向き直る。その目の一つ一つに、しっかりと二人の姿が映っているのが見えた。

逃げようにも、逃げられる状況ではない。視界も足場も悪く、おまけに王女は腰を抜かしそうな有様だ。
心中密かにため息をつきながら、

「隠れていろ」

ひと際大きな木の陰に、震えるアマリアを押し込むようにして座らせると、彼は腰のナイフを抜いて化け物蜘蛛に向き直った。

この濃霧の中で獲物を見つけたことがよほど嬉しいのか、蜘蛛は牙をしきりにぶつかり合わせ、そこから毒液を滴らせている。

睨み合いの中で先に動いたのは、大蜘蛛のほうだった。突如繰り出された右前脚を、大きく上に跳びあがって避けたヴァンツァーは、一度は抜いたナイフを腰に収め、両腕を真っ直ぐに化け物のほうに向かって突き出した。

掌から立て続けに放たれた風弾が、辺りの霧を薙ぎ払いながら蜘蛛に直撃し、黒い巨体が呻き声をあげて身もだえする。
獲物だと思っていた、自分よりも小さな生き物の思わぬ反撃を受けて、八つの赤い目が怒りに燃え上がった。恐ろしい叫び声をあげて、黒い小人を踏み潰そうと、巨大な脚を雨あられと降り注がせる。

だが、黒い疾風の様に動き回るヴァンツァーは、怒り狂う大蜘蛛に反撃の隙を与えなかった。振り下ろされる鉄槌のような脚の猛攻を巧みに掻い潜り、その合間にも風弾を撃ち込んでいく。

「ヴァンツァー!」

霧の向こうから王女の呼び声が聞こえたが、彼は見向きもしなかった。蜘蛛がうなり声をあげて脚を振りおろし、ヴァンツァーが一際大きく飛び退ったとき、彼の右手には巨大な風の刃が渦を巻いていた。

銀髪の暗殺者は、狙いを定め、撃った。男の手を離れた風の刃は、白霧のヴェールを切り裂き、凄まじい勢いで飛んでいく。次の瞬間、蜘蛛の脚の一本が緑の液体を大量に吹き出し、真っ二つに切断された。

傷口からぼたぼたと体液を滴らせ、鼓膜を突き破りそうな苦痛の叫び声が辺りに響く。黒い巨体をぶるぶると身震いさせ、蜘蛛が口から白い泡を噴き出した。八つの赤い目を狂ったように動かし回し、虚空の中にヴァンツァーの姿を探し求める。

次の瞬間、その八つの目が一斉に一点を睨みつけた。木の上のヴァンツァーでは無い。アマリアが隠れた、その木の方角だ。

それに気づいて痛烈な舌打ちを漏らしたヴァンツァーが、両膝を折り曲げ、太股の筋肉を肥大させた。爆発的な踏み込みを受けて、折れるほどしなった木の枝が、弓から放たれる矢のような勢いでヴァンツァーの身体を撃ち出す。

暗殺者の腕が白い王女の身体を抱きかかえるのと、黒い蜘蛛が身体ごと二人に突っ込んだのは、ほぼ同時だった。その瞬間に銀の指環が光り輝き、二人の周囲を青いヴェールが覆う。

悲鳴を上げて宙空に吹き飛んだ大蜘蛛の太鼓腹を、右手を翳した暗殺者の、巨大な風弾が突き破った。


【用語辞典】
※用語辞典を見る前に※
ここは、長編ファンタジーラグナロクに登場する専門用語の簡単な説明を行う場です。
物語の進行とともにこちらも更新されていくと思いますが、最新話までの情報は既出のものとして扱います。最新話までお読みになられていない場合は、ネタバレになる可能性もありますので、くれぐれもご注意ください。


『アイジスティア』
世界でも特に強い勢力を誇る国家の一つ。北のローケンバーグ、南のグラナディカと共に、三大国家の一つに数えられる。アマリアの母国である。

『アスガルド』
ヴァンツァーたちの住む世界の名前。

『エウロパ』
旅道の沿線に位置する、小さな農村。
水牛の仲間であるブラウニーを育て、その肉や乳をアイジスティアに売ることで生計を立てている。
古くは宿場町としても機能していたが、現在は新道が出来たために廃れつつある。

『シェンバロ』
ハーメルの持つ風変わりな弦楽器。ある民族が古来の神話伝承を歌うときに使われたものらしく、現存する弾き手はわずかしかいない。

『大地の巫女』
古代の伝承に伝わる、伝説の踊り子。現在はリーシャのことを指す。

『ノースポート』
アイジスティアの北に位置する、東海に臨む港町。
白壁の建物と陽気な市場が有名で、船乗りたちの町として知られている反面、政府の出入りをかたくなに拒み、自治を掲げているために、無法者たちの溜まり場ともなっている。

『飛空艇』
近年開発された、飛空石を原動力とする空飛ぶ船。
機動性と利便性に富み、各国が先を争って開発に着手している。

『ラグナロク』
七年前に大陸戦争終結のきっかけをもたらした、昼夜を問わず空が赤黒く染まった現象を指す。
地上には赤い雨が降り注ぎ、レギナスの出現をはじめとする様々な異常現象を地上にもたらしたが、未だにその原因は解明されていない。

『レギナス』
ラグナロク以降に地上に現れた、特殊な能力を持つ人々の総称。

『ローケンバーグ』
世界でも特に強い勢力を誇る、三大国家の一つ。特に技術面での躍進は凄まじく、初めて飛空艇の開発に成功したのもこの国。
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