大きな物音に、深い眠りに沈んでいたアマリアも、ようやく目を覚ました。二、三度瞬きをすると、ベッドの上に起き上がって、大きく伸びをする。窓から吹き込んだ爽やかな風が、笑いながら王女の顔を撫でた。
波の音に振り向けば、ベッドの横の窓からは、素晴らしい景色が一望できた。すでに太陽は水平線から顔を出し、海は虹色に輝いている。遠くのほうにいるのは、早くも漁に出た船だろうか。それとも、異国の荷物を積んだ貿易船だろうか。さざ波の音に乗って、船乗りたちの声が聞こえてくる。
癖のついた美しい黒髪を、手櫛でゆっくりととかしながら、今度は部屋の中を振り向く。
そこでようやくアマリアは、倒れている本棚と、散らばったたくさんの本、そしてそれに半分埋もれて、仏頂面で自分のほうを睨んでいるヴァンツァーを見つけた。
「あの――、」
話しかけようとして、口を右手でかくして、小さく欠伸をすると、
「おはようございます」
挨拶をする。
ヴァンツァーは小さく鼻を鳴らしたきり、本の山から抜け出すと、本棚を起こし、黙々と本を片付け始めた。一冊、一冊、丁寧に背表紙を揃え、並べていく。
「挨拶は大事なのに……」
眠たい目をこすりながら、アマリアは小さく呟いた。続いて、ゆっくりとあたりを見回し、ようやく自分が見知らぬ場所にいることに気づく。
「あの――、」
先ほどと同じ調子で声をかけたアマリアに、
「なんだ!」
今度は苛立たしげな声をあげて、ヴァンツァーが振り向いた。その手には、赤い背表紙に金の糸で『イブン・ソレイユ世界周行記』と刺繍された本が握られている。
ここはどこですか、という言葉を飲み込んで、
「あ、その本、私も読みましたよ」
アマリアはそう言った。
大きなため息をつくと、ヴァンツァーはその本も本棚に仕舞い込んだ。
ようやくすべての本を片付け終わったようで、両手についたほこりを払う。
ベッドのそばの椅子にどっかと腰かけると、アマリアのほうを向いて、ヴァンツァーはこう言った。
「お前に訊きたいことがある」
波の音に振り向けば、ベッドの横の窓からは、素晴らしい景色が一望できた。すでに太陽は水平線から顔を出し、海は虹色に輝いている。遠くのほうにいるのは、早くも漁に出た船だろうか。それとも、異国の荷物を積んだ貿易船だろうか。さざ波の音に乗って、船乗りたちの声が聞こえてくる。
癖のついた美しい黒髪を、手櫛でゆっくりととかしながら、今度は部屋の中を振り向く。
そこでようやくアマリアは、倒れている本棚と、散らばったたくさんの本、そしてそれに半分埋もれて、仏頂面で自分のほうを睨んでいるヴァンツァーを見つけた。
「あの――、」
話しかけようとして、口を右手でかくして、小さく欠伸をすると、
「おはようございます」
挨拶をする。
ヴァンツァーは小さく鼻を鳴らしたきり、本の山から抜け出すと、本棚を起こし、黙々と本を片付け始めた。一冊、一冊、丁寧に背表紙を揃え、並べていく。
「挨拶は大事なのに……」
眠たい目をこすりながら、アマリアは小さく呟いた。続いて、ゆっくりとあたりを見回し、ようやく自分が見知らぬ場所にいることに気づく。
「あの――、」
先ほどと同じ調子で声をかけたアマリアに、
「なんだ!」
今度は苛立たしげな声をあげて、ヴァンツァーが振り向いた。その手には、赤い背表紙に金の糸で『イブン・ソレイユ世界周行記』と刺繍された本が握られている。
ここはどこですか、という言葉を飲み込んで、
「あ、その本、私も読みましたよ」
アマリアはそう言った。
大きなため息をつくと、ヴァンツァーはその本も本棚に仕舞い込んだ。
ようやくすべての本を片付け終わったようで、両手についたほこりを払う。
ベッドのそばの椅子にどっかと腰かけると、アマリアのほうを向いて、ヴァンツァーはこう言った。
「お前に訊きたいことがある」
暗い路地裏を、黒猫が歩いていました。
脇目も振らず、黒猫が歩いていました。
『ほら、のら、やるよ』
魚屋さんが黒猫のほうに、秋刀魚を一匹放り投げました。
『いいよ、大丈夫だから』
黒猫は見向きもせずに、行ってしまいました。
『寂しくないの? うちに来ない?』
塀の上を歩いていた黒猫に、女の子が話しかけます。
『いいよ、大丈夫だから』
黒猫は振り返りもせずに、行ってしまいました。
ある日黒猫は、白猫と出会いました。
白猫は痩せていましたが、とても美しい猫でした。
『これ、あげる』
黒猫が、自分の捕ってきたねずみを白猫のほうに差し出します。
『いいの、大丈夫だから』
黒猫は、なんとなく悲しい気持ちになりました。
『公園の土管で、雨宿りが出来るよ』
黒猫が言います。
『いいの、大丈夫だから』
黒猫は、なんとなく寂しい気持ちになりました。
『……そう』
そう呟いて、黒猫は白猫の傍を離れました。
暗い路地裏を、黒猫が歩いていました。
今日も一人で、黒猫が歩いていました。
『ほら、のら、やるよ』
魚屋さんが黒猫のほうに鮭の切り身を放り投げました。
黒猫は、自分の足元に落ちたそれをじっと見ました。
そして、魚屋さんのほうを見上げました。
『うん、ありがとう』
そう言うと、黒猫は鮭の切り身をくわえて歩き出しました。
『寂しくないの? うちに来ない?』
塀の上を歩いていた黒猫に、女の子が話しかけます。
『いいよ、大丈夫だから』
通り過ぎようとした黒猫は、ふっと、立ち止まりました。
振り返ると、ちょっと悲しそうな顔をした女の子の目をじっと見て、そして言いました。
『でも、ありがとう』
脇目も振らず、黒猫が歩いていました。
『ほら、のら、やるよ』
魚屋さんが黒猫のほうに、秋刀魚を一匹放り投げました。
『いいよ、大丈夫だから』
黒猫は見向きもせずに、行ってしまいました。
『寂しくないの? うちに来ない?』
塀の上を歩いていた黒猫に、女の子が話しかけます。
『いいよ、大丈夫だから』
黒猫は振り返りもせずに、行ってしまいました。
ある日黒猫は、白猫と出会いました。
白猫は痩せていましたが、とても美しい猫でした。
『これ、あげる』
黒猫が、自分の捕ってきたねずみを白猫のほうに差し出します。
『いいの、大丈夫だから』
黒猫は、なんとなく悲しい気持ちになりました。
『公園の土管で、雨宿りが出来るよ』
黒猫が言います。
『いいの、大丈夫だから』
黒猫は、なんとなく寂しい気持ちになりました。
『……そう』
そう呟いて、黒猫は白猫の傍を離れました。
暗い路地裏を、黒猫が歩いていました。
今日も一人で、黒猫が歩いていました。
『ほら、のら、やるよ』
魚屋さんが黒猫のほうに鮭の切り身を放り投げました。
黒猫は、自分の足元に落ちたそれをじっと見ました。
そして、魚屋さんのほうを見上げました。
『うん、ありがとう』
そう言うと、黒猫は鮭の切り身をくわえて歩き出しました。
『寂しくないの? うちに来ない?』
塀の上を歩いていた黒猫に、女の子が話しかけます。
『いいよ、大丈夫だから』
通り過ぎようとした黒猫は、ふっと、立ち止まりました。
振り返ると、ちょっと悲しそうな顔をした女の子の目をじっと見て、そして言いました。
『でも、ありがとう』
気づくと少年は見知らぬ世界に立っていた。
空からは水が流れ落ち、一面に花びらが舞っている。
辺りには心地よい香りが漂い、美しい鳴き声を響かせながら、
大きな翼を持った純白の鳥たちが、真っ青な空を横切っていった。
『忘れないで欲しいんだ』
突然後ろからかかった声に、少年は驚いて振り向いた。
そこに立っていたのは、いかにも旅人と言った風体の一人の男だった。
『……なにを?』
少年が、物寂しそうな目をしたその男に話しかける。
『この世界を。そして俺を』
男のあまりにも真に迫った様子に、少年は思わず息を呑みながら返事をした。
『……わかった』
だが男は、ゆっくりと首を振った。
『本当は、そんな奴が居ないってことはわかってんだ』
ぽつりと、吐き捨てるように一言。
そこで、思い直したようにぐいと少年の両肩をつかんで、その顔を覗き込む。
『……でも、いいかい? この世界はたとえ一瞬だけだとしても、存在したんだ。たとえほんのひと時だけでも、本物だったんだ。いいか? 覚えていてくれるか?』
その瞳の奥に、少年は自分の呆然とした顔が映っているのを見た。
瞳に映った自分が、ゆっくりと頷くのが見えた。
あまりにも深い色をしたその瞳の底に、少年は自分の意識が沈んでいくのを感じた。
だんだんと深く……。もっと深く……。
そして少年は目を覚ました。
ベッドの上。窓の外では小鳥のさえずりが聞こえる。
開け放たれた窓の外から、涼しい風が吹き込んでくる。
しばらくぼんやりと、まるではじめて見るもののように部屋をぐるりと見回した少年は……、
少年は、ふと枕もとの時計に目をやり、慌ててベッドから飛び起きた。
ぐしゃぐしゃになった布団の上に、はらりと一枚の花びらが落ちた。
空からは水が流れ落ち、一面に花びらが舞っている。
辺りには心地よい香りが漂い、美しい鳴き声を響かせながら、
大きな翼を持った純白の鳥たちが、真っ青な空を横切っていった。
『忘れないで欲しいんだ』
突然後ろからかかった声に、少年は驚いて振り向いた。
そこに立っていたのは、いかにも旅人と言った風体の一人の男だった。
『……なにを?』
少年が、物寂しそうな目をしたその男に話しかける。
『この世界を。そして俺を』
男のあまりにも真に迫った様子に、少年は思わず息を呑みながら返事をした。
『……わかった』
だが男は、ゆっくりと首を振った。
『本当は、そんな奴が居ないってことはわかってんだ』
ぽつりと、吐き捨てるように一言。
そこで、思い直したようにぐいと少年の両肩をつかんで、その顔を覗き込む。
『……でも、いいかい? この世界はたとえ一瞬だけだとしても、存在したんだ。たとえほんのひと時だけでも、本物だったんだ。いいか? 覚えていてくれるか?』
その瞳の奥に、少年は自分の呆然とした顔が映っているのを見た。
瞳に映った自分が、ゆっくりと頷くのが見えた。
あまりにも深い色をしたその瞳の底に、少年は自分の意識が沈んでいくのを感じた。
だんだんと深く……。もっと深く……。
そして少年は目を覚ました。
ベッドの上。窓の外では小鳥のさえずりが聞こえる。
開け放たれた窓の外から、涼しい風が吹き込んでくる。
しばらくぼんやりと、まるではじめて見るもののように部屋をぐるりと見回した少年は……、
少年は、ふと枕もとの時計に目をやり、慌ててベッドから飛び起きた。
ぐしゃぐしゃになった布団の上に、はらりと一枚の花びらが落ちた。
一晩中草原を走り続けたその足で、ヴァンツァーがノースポートにたどり着いたのは、まだ辺りが暗く、夜も明けていない頃のことだった。
流石に疲れたのか、足もとが若干おぼつかない。
いくら朝の早い港町と言えども、まだ人々は寝静まっているようだった。白い壁をした家々の灯りは消され、辺りには引いては寄せる波の音だけが優しげに響いている。
それでも慎重に辺りに気を配りながら、ヴァンツァーは王女だけはしっかりと背負い、道を選びながら町の中へと入っていった。余程疲れていたのだろうか、背中の王女はぐっすりと眠り続け、多少揺れても起きる気配がない。
細い路地をいくつも通り抜け、白い壁に取り付けられた、蝶番のさびた扉の前で、ようやく彼は立ち止まった。二、三度辺りを見回してから、一度王女を背負い直すと、ゆっくりと扉を引き、彼はその中へと入って行った。
* * *
部屋の中は、明かりがつけられていないせいもあるが、暗く狭かった。ベッドと、机に椅子、壁際の本棚のほかには、何もない。埃だらけの木の床が、踏まれる度に軋む音を立てる。
ヴァンツァーは、机の上のロウソクに火を灯すこともせずに部屋を横切ると、窓際の粗末なベッドの上にアマリアの身体を下ろした。黒髪が、ばらりとシーツの上に広がる。起きるかと思ったが、どうやらそれでも目を覚ますつもりはないらしい。二、三度まぶたを震わせると、彼女は再び穏やかな寝息を立て始めた。
一つため息をつくと、彼は近くにあった椅子を引き寄せて、その上にどかりと腰を下ろした。頬杖をついて、その寝顔を眺める。
美しい顔だ。夜目が利く彼には、女が呼吸をするたびに、そのまつげが微かに震えるのまで見えた。どんな夢を見ているのか、口元にはうっすらと微笑を浮かべている。左手の指輪も、彼を弾き飛ばした凶暴な光の面影はどこにもなく、今はただ静かに眠っているように見えた。
どれほどの時間が経ったのか、海がうっすらと夜明けの色に染まったとき、ようやく彼は、弾かれたように椅子から立ち上がった。本棚の近くまで寄ると、腰のナイフを抜き払い、意を決した表情でベッドのほうへと向き直る。
王女が、寝返りを一つ打った。丁度いい具合に、艶めかしい白い首筋が、無防備にさらされる。今度こそは、外さない。その自信もあった。
鋭く息を吐くとともに、その一点を睨みつけると、男は恐ろしい勢いでナイフを投じた。速いなどというものではない。放たれたナイフは、風を切り裂く音だけ残して、真っ直ぐに狙った場所に飛んでいった。
だが。
次の瞬間、彼は勢いよく身をかがめた。ほぼ同時に、背後の壁に、どすりという鈍い音を立てて、ナイフが突き刺さる。かがむのが遅れていれば、間違いなく命はなかったに違いない。
憎々しげに、王女の指で仄青く光る指環を睨め付けると、男は壁深く突き刺さったナイフを、力を込めて引き抜いた。ひとしきり刃こぼれしていないか確かめると、再び腰に収める。
しかし、男には、まだ諦めるつもりはなかった。
続いて彼は、寝ている王女の身体に向かって、真っ直ぐに右腕を伸ばした。
右の掌の先に、白い尾を引いて、気流が渦を巻く。それは、大きくなったり、小さくなったりしながら、徐々に丸い形へとおさまっていった。
そして。
どん、という大砲のような音を立てて、風の弾は狙いをあやまたず、王女の眠るベッドへと飛んでいった。瞬間、青白い光が展開し、それを跳ね返すのが見えた。
もはや、避けることもままならなかった。風の弾は真っ直ぐに男の腹に飛び込み、その鍛え抜かれた身体が、まるで木の葉のように吹き飛び、背後の本棚に突っ込んだ。
流石に疲れたのか、足もとが若干おぼつかない。
いくら朝の早い港町と言えども、まだ人々は寝静まっているようだった。白い壁をした家々の灯りは消され、辺りには引いては寄せる波の音だけが優しげに響いている。
それでも慎重に辺りに気を配りながら、ヴァンツァーは王女だけはしっかりと背負い、道を選びながら町の中へと入っていった。余程疲れていたのだろうか、背中の王女はぐっすりと眠り続け、多少揺れても起きる気配がない。
細い路地をいくつも通り抜け、白い壁に取り付けられた、蝶番のさびた扉の前で、ようやく彼は立ち止まった。二、三度辺りを見回してから、一度王女を背負い直すと、ゆっくりと扉を引き、彼はその中へと入って行った。
* * *
部屋の中は、明かりがつけられていないせいもあるが、暗く狭かった。ベッドと、机に椅子、壁際の本棚のほかには、何もない。埃だらけの木の床が、踏まれる度に軋む音を立てる。
ヴァンツァーは、机の上のロウソクに火を灯すこともせずに部屋を横切ると、窓際の粗末なベッドの上にアマリアの身体を下ろした。黒髪が、ばらりとシーツの上に広がる。起きるかと思ったが、どうやらそれでも目を覚ますつもりはないらしい。二、三度まぶたを震わせると、彼女は再び穏やかな寝息を立て始めた。
一つため息をつくと、彼は近くにあった椅子を引き寄せて、その上にどかりと腰を下ろした。頬杖をついて、その寝顔を眺める。
美しい顔だ。夜目が利く彼には、女が呼吸をするたびに、そのまつげが微かに震えるのまで見えた。どんな夢を見ているのか、口元にはうっすらと微笑を浮かべている。左手の指輪も、彼を弾き飛ばした凶暴な光の面影はどこにもなく、今はただ静かに眠っているように見えた。
どれほどの時間が経ったのか、海がうっすらと夜明けの色に染まったとき、ようやく彼は、弾かれたように椅子から立ち上がった。本棚の近くまで寄ると、腰のナイフを抜き払い、意を決した表情でベッドのほうへと向き直る。
王女が、寝返りを一つ打った。丁度いい具合に、艶めかしい白い首筋が、無防備にさらされる。今度こそは、外さない。その自信もあった。
鋭く息を吐くとともに、その一点を睨みつけると、男は恐ろしい勢いでナイフを投じた。速いなどというものではない。放たれたナイフは、風を切り裂く音だけ残して、真っ直ぐに狙った場所に飛んでいった。
だが。
次の瞬間、彼は勢いよく身をかがめた。ほぼ同時に、背後の壁に、どすりという鈍い音を立てて、ナイフが突き刺さる。かがむのが遅れていれば、間違いなく命はなかったに違いない。
憎々しげに、王女の指で仄青く光る指環を睨め付けると、男は壁深く突き刺さったナイフを、力を込めて引き抜いた。ひとしきり刃こぼれしていないか確かめると、再び腰に収める。
しかし、男には、まだ諦めるつもりはなかった。
続いて彼は、寝ている王女の身体に向かって、真っ直ぐに右腕を伸ばした。
右の掌の先に、白い尾を引いて、気流が渦を巻く。それは、大きくなったり、小さくなったりしながら、徐々に丸い形へとおさまっていった。
そして。
どん、という大砲のような音を立てて、風の弾は狙いをあやまたず、王女の眠るベッドへと飛んでいった。瞬間、青白い光が展開し、それを跳ね返すのが見えた。
もはや、避けることもままならなかった。風の弾は真っ直ぐに男の腹に飛び込み、その鍛え抜かれた身体が、まるで木の葉のように吹き飛び、背後の本棚に突っ込んだ。
城で兵士たちが火のついたような大騒ぎを始めた頃、二人は国を囲う防壁も越えて、遠く離れた草はらを駆けていた。正確に言うと、駆けているのは一人だけで、もう一人はその背中に背負われていたのだが。
「――どこに、向かっているのですか?」
背中の女が、目の前の男に尋ねる。
「ノースポートだ」
かなり速いペースで走っているにもかかわらず、男は汗ばむ気配もなく、呼吸一つ乱していない。辺りは月明かりに充ち溢れ、時折吹く風が、いくつもの流れとなって草原を薙いでいく。人の気配は全く無く、アイジスティアの灯りも、遥か後ろのほうに遠ざかって見えた。
「綺麗ですね……」
女がそう話しかけたものの、男は何も答えてはくれなかった。前から押し寄せる風に、銀髪がなびいている。
黙り込んだまま、彼女は、最初に男が部屋に押し入ってきたときの、無表情な紅い目を思い出していた。不思議と、恐ろしさの中に、どこか物悲しい気配が漂っていると思ったものだ。
「あの……」
躊躇いがちに、再び話しかけてみた。
「なんだ」
面倒くさそうな声が、それに答える。
「お名前を、教えていただけますか?」
「……“黒い風”と呼ばれている」
「そんなものじゃなくて、本当のお名前です」
男が、ちらと振り返った。
「聞いてどうする」
「お呼びするときに困りますわ」
「…………」
静かになると、耳元を過ぎる風の音が大きく聞こえる。やがて、男は口を開いた。
「ヴァンツァーだ」
「ヴァンツァー……」
女がもう一度、記憶に刻み込もうとするように、その名前を呟く。
「私の名前は――、」
「知っている。 アーメリア・フォン・ヴァイスハイト。 アイジスティア国王、アレクシウス・フォン・ヴァイスハイトの一人娘」
女は、すらすらと述べた男にしばらく驚いていたようだったが、しばらくしてこう言った。
「アマリアと呼んでください」
「アマリア?」
また、男が振り返った。女が頷く。
「ええ、城の皆にはそう呼ばれていたので」
いつの間にか、男を恐ろしいと思う感情は消え去っていた。背負われている背中から伝わってくる、温かい体温のせいかもしれない。
月の光は草原を満たし、夜空は流れる雲の模様までわかるほど明るかった。流れる風と、過ぎゆく景色だけが、かろうじて、走っているということを思い出させる。
やがてアマリアは、自分でも知らないうちに男の背中に体を預け、眠りに落ちていた。
「――どこに、向かっているのですか?」
背中の女が、目の前の男に尋ねる。
「ノースポートだ」
かなり速いペースで走っているにもかかわらず、男は汗ばむ気配もなく、呼吸一つ乱していない。辺りは月明かりに充ち溢れ、時折吹く風が、いくつもの流れとなって草原を薙いでいく。人の気配は全く無く、アイジスティアの灯りも、遥か後ろのほうに遠ざかって見えた。
「綺麗ですね……」
女がそう話しかけたものの、男は何も答えてはくれなかった。前から押し寄せる風に、銀髪がなびいている。
黙り込んだまま、彼女は、最初に男が部屋に押し入ってきたときの、無表情な紅い目を思い出していた。不思議と、恐ろしさの中に、どこか物悲しい気配が漂っていると思ったものだ。
「あの……」
躊躇いがちに、再び話しかけてみた。
「なんだ」
面倒くさそうな声が、それに答える。
「お名前を、教えていただけますか?」
「……“黒い風”と呼ばれている」
「そんなものじゃなくて、本当のお名前です」
男が、ちらと振り返った。
「聞いてどうする」
「お呼びするときに困りますわ」
「…………」
静かになると、耳元を過ぎる風の音が大きく聞こえる。やがて、男は口を開いた。
「ヴァンツァーだ」
「ヴァンツァー……」
女がもう一度、記憶に刻み込もうとするように、その名前を呟く。
「私の名前は――、」
「知っている。 アーメリア・フォン・ヴァイスハイト。 アイジスティア国王、アレクシウス・フォン・ヴァイスハイトの一人娘」
女は、すらすらと述べた男にしばらく驚いていたようだったが、しばらくしてこう言った。
「アマリアと呼んでください」
「アマリア?」
また、男が振り返った。女が頷く。
「ええ、城の皆にはそう呼ばれていたので」
いつの間にか、男を恐ろしいと思う感情は消え去っていた。背負われている背中から伝わってくる、温かい体温のせいかもしれない。
月の光は草原を満たし、夜空は流れる雲の模様までわかるほど明るかった。流れる風と、過ぎゆく景色だけが、かろうじて、走っているということを思い出させる。
やがてアマリアは、自分でも知らないうちに男の背中に体を預け、眠りに落ちていた。



