そして今日も私は眠りに就く。深く深く、何もかも忘れて。昏い昏い夜の揺り籠に、身も心も沈める様にして。
気がつくと櫂で水をかく音が聞こえた。何時の間にか私は、ゆらゆらと揺れる舟の上にいた。うすぼんやりと銀白に輝く、まるで産まれたてのヒヨコのような、優しい色の舟だ。
「ここはどこ?」
思わずそう口に出して呟いた私に、
「月の舟の上だよ」
そういう風に、答える声があった。銀色の小さな鈴を振るような、可愛らしい声。
驚いて、私は振り返った。自分の他に誰かがいるなんて、思いもしなかったからだ。いつだって、私の夢に出てくるのは私だけだったのに。
そこにいたのは、可愛らしい黄色の花を咲かせた、小さな月見草だった。足元で揺れる舟と同じように、彼女の華奢な体も銀色の柔らかな色に輝いている。
「こんばんは」
私がそう挨拶すると、
「こんばんは」
月見草もそう言って、ころころと笑った。
「何故、笑うの? 私、何か可笑しいかな」
私がそう尋ねると、月見草は首を振る。そして彼女はにっこりと笑った。
「ううん、可笑しくない。嬉しいの、あなたが来てくれて」
何故だか私はそれですっかり安心して、船べりに腰かけた。ふらふらと揺れる足の下には、見渡す限り夜の町並みが広がっている。それを見下ろしている内に、私はふと、さっきの月見草の言葉が気になった。
「月の舟と言ったの?」
「うん、月の舟。この舟で、眠っている人たちのところに月の光を届けるの」
「月の光?」
「うん、月の光」
「そっか」
月の光がどのようなものか私は知らないけれど、きっといいものに違いないと私は思った。月見草の少女のような声と、少年のような喋り方は、私の耳に心地よく響いた。私は一人で頷いて、また眼下に広がる家々を見下ろした。少しだけ頭を傾げて、私は考えた。いったい今、世界中でどれだけの人が眠っているのだろう。ちゃぷちゃぷと水音の鳴る足元では、ちらほらと部屋の灯りがついている窓が見えた。いったい今、世界中でどれだけの人が幸せな夢を見ているのだろう。私のところまで笑い声は聞こえないけれど。
辺りはしんと静まり返っていて、相変わらず櫂が水を掻く音だけが聞こえた。舟がゆっくりと、前へ前へと漕ぎ進むたびに、柔らかに凍りついた夜空から、細かな結晶がぱらぱらとこぼれおちて、私の顔にかかった。
月の舟は相変わらずうすぼんやりと光って、まるで生きているように仄かに温かい。横になってぴったりと耳を付けてみると、ゆっくりと、かすかに脈を打つ音が聞こえる気がした。
「眠いの?」
月見草が、話しかけてきた。
私は黙って頷いた。ゆらゆらと揺れる月の舟の上は心地が良かった。目の前の景色が、だんだんと線を失って滲んでいく。
まどろみの中で、私はぼんやりと考えた。
月見草は、いつもここに一人でいるのだろうか。彼女はいつも、何を思ってここにいるのだろう。目を覚ましたら、私は彼女のことを忘れてしまうのだろうか。そして彼女は、それをどう思うだろうか。
気が付くとまた、私は夢を見ていた。 私の見ていた夢は、大きな蛇が出てくる夢だった。
夢の中で蛇は、自分よりもずっと身体の大きな象を、ゆっくりと、時間をかけて呑み込んだ。蛇に呑み込まれている間ずっと、象はぽろぽろと涙を流していた。それでも象は、蛇に呑み込まれている間、じっと動こうとはしなかった。
ゆっくりと時間をかけて、蛇は象を呑み込んだ。そして彼もまた、その大きな目から、ぽろぽろと涙をこぼした。
すっかり象を呑み込んでしまうと、蛇はじっと動かなくなった。お腹を象の形に膨らませたまま、蛇はぐったりと目を閉じた。きっとお腹が象の形でなくなるまで、二度と動こうとはしないのだろう。そう思うと私は、急に悲しくなった。
それは、ただそれだけの夢だった。
少女の泣き声が聞こえた。
わんわんと声を張り上げるのではなく、もっと静かに、涙だけをこぼすような泣き方だ。まるで先ほど蛇のように。
目を覚ました私が、眠い目をこすりながら辺りを見回すと、そこはまだ舟の上であるようだった。
しばらくぼんやりとしていた私は、ぶるりと身を震わせた。寒い。いつの間に汗をかいたのか、背中がぐっしょりと濡れていた。先程までの包み込むような温かい雰囲気はどこにもなく、月の舟までもがコツコツと固い手触りを返してくる。
泣いていたのは月見草だった。少女は細い肩を震わせて、縮こまるようにして泣いていた。もともと幻想的な雰囲気を漂わせていたのが、そうしている姿はとても儚く、今にも掻き消えてしまいそうに見える。
「どうしたの」
私はそっと小さな声で、月見草に声をかけた。そうしないと彼女の姿は、今にも細かな星屑へと崩れ去ってしまいそうに見えたからだ。私が話しかけても、月見草は伏せた顔を上げようとはしなかった。静かな泣き声だけが、私のところまで漏れ聞こえてくる。
私はそっと彼女に近寄ると、その小さな体を後ろから抱える様にして抱きしめた。彼女の体はとても華奢で、信じられないほど小さかったけれど、その体は温かく、確かに小さな鼓動の音が聞こえた。
「どうしたの」
私はもう一度尋ねた。ようやく、月見草は答えてくれた。それは消え入りそうな声だった。
「舟が動かなくなってしまったの」
そう言われて初めて私は、水を掻く櫂の音が聞こえなくなっているのに気付いた。遠く下の方に見える家々は、まるで息を潜めて昏い夜の底に押し黙っているように見える。
月見草は私の腕の中でもぞもぞと体を動かしてこちらを向いた。大きな目は涙に濡れていた。
「なぜ舟は動かないの」
私はまた尋ねた。
「幸せな夢が見つからないから」
月見草はそこまで言うと、ちょっと躊躇うようにしてから、その先を話し出した。
「幸せな夢は、チカリと光るの。私はそれをすくい上げて、燃料にして、月の舟を動かしていたの」
でも、夜はとても昏いから、私はその夢を見つけることが出来なくなってしまった。
「悲しい夢を、とても悲しい夢を見ている人がいるわ。疲れて眠っているその人の窓辺に、もうすぐ月の光を届けられるのに、舟はもう動かない」
俯いた月見草の頭を、私はくしゃりと撫でた。彼女の髪は星の砂のように透き通っていて、指の間をサラサラと通り抜けていった。
「私が幸せな夢を見る。だから、それを使って船を動かして」
それを聞いた時の彼女の顔。彼女は目にいっぱいの涙を溜めているのに、私はその顔を見て笑ってしまった。
「でも、そんなことをしたらあなたはその幸せな夢を忘れてしまう」
ちょっと考えて、私は言った。
「構わないよ」
私の幸せな夢なんかで、あなたが泣き止んでくれるのなら。月見草はしばらく何かを言おうと言葉を探していたが、やがてそれも諦めたのか、小さな声で
「ありがとう」
そう言うと、はにかんだように笑った。
舟は再び緩やかに動き始めた。凍りついた夜の結晶は解けだして、すずやかな風が私の髪を撫ぜた。ことり、ことりと櫂が音を立てて動く度に、舟は深い夜の中をゆっくりと前へ進んでいく。先ほど泣き顔を見られたことがよほど恥ずかしかったのか、月見草はちらりちらりと私の方を振り返り、私と目が合うとその度に照れ笑いを浮かべた。
やがて、舟は目的の場所に辿り着いたようだった。私は戸惑ったように月見草の方を見た。そこは、私の部屋の窓の外だったからだ。月見草は真剣な顔で私に頷き返すと、鍵がかかっているはずの窓に手をかけて、からりと開いた。
「ありがとう。あなたのおかげで、私は月の光を届けることが出来た」
でも。でも、ここは私の部屋じゃないか。私は、悲しい夢なんか見ていなかったよ。
恐らく、その時の私はそんな風に今にも泣き出しそうな顔をしていたのだろう。月見草はにっこりと微笑むと、私の手を引いて部屋の中に入り、ベッドに入るように促した。月見草がふわりと布団をかけてくれたベッドの中は、まるで先程までそこに誰かが眠っていたかのように温かかった。目を閉じると、私の心音がかすかに聞こえてくる。
「今は、おやすみなさい」
瞼の裏側のどこかで、月見草が囁いたのが聞こえた。額に置かれた彼女の手が、そっとどこかへ離れていく。目が覚めたら、きっと私は彼女のことを忘れてしまうのだろう。そう思いながら私は、深い深い眠りへと落ちていく。
そして私は、今日も夜空を見上げる。月見草は今日もあの空を、月の舟に乗って旅しているのだろうか。