memory

そうして話している間にも、また一つ思い出が光った。
シキは悲鳴を上げて両腕を差し出した。泡立つ光は腕の間をすり抜けて、見る見るうちに天へと昇っていく。
「触れやしないよ」
ロクは微笑んで、そっとシキの腕に触った。ひんやりと冷えた指。口元は笑っているのに、ロクの目は寂しそうに光っていた。
「仕方のないことなんだ。皆失って生きてる。全部抱えていくには余りにも重すぎる」
今や光の塊となったそれは、まるで蛍のようにばらばらにほぐれて空へと飛んで行った。まるで輝く雪のように、それは暗い夜空に向かって降り注いでいた。重さなんてまるでないみたいに。
「シキは抱え込みすぎた。だからこんなところまで落ちてきてしまったんだよ。きっと」
さぁ、もう歩き出す時間だ。独り言を言うみたいに、ロクは呟いた。怖がることはないよ。本当に大事なものは、ずっと君とともにある。例え君がそれを忘れてしまったとしても。
「だから、もうさよならだ、シキ。暗闇を抜けるまで、決して振り返ってはならないよ」
願わくば、君と僕とが、もう二度と出会いませんように。そう囁くロクの目からぽろぽろと涙がこぼれる。さようならだ。彼の口がゆっくりと動く。怖がることはないよ、シキ。君が忘れても、僕がずっと覚えてる。だから、さようなら。

ragnarok.7

 どうやら王女がただ消えただけでなく浚われたらしいことが判ったのが、明け方に城の中庭で血まみれの魔導士が発見された頃だ。それも奸賊如きにおいそれとやられる筈もない、戦線に立つような第一級の結界術士が瀕死の状態で発見されたことで、城の内部は未だかつて無いような緊張状態に陥った。
 
「奴はどこです。私は……!」
「目が覚めたか、グリモー」
 うめき声をあげて、ようやく開かれた藍色の瞳を覗き込むようにして、ローザは訊ねた。激しい痛みが彼を襲っていることは、表情からも窺い知れる。それでもベッドから這い出ようとする魔導士を、殆ど押し留めるようにして彼女は首を横に振った。
「無理をするな、即死を免れたでも有難いほどの傷だ。ミレーナに感謝するんだな」
それに応じるようにして、ローザの背後から白いローブをまとった女性が進み出る。輝くような金髪を肩のあたりで切り揃えた、美しい女性だ。ローザに助けられて魔導士がようやく上体を起こすと、彼女は袂から小さな薬瓶を取り出して、それを魔導士に差し出した。
「これを飲んでください。私の調合した魔導薬です。少しでも痛みが治まるとよいのですが」
よほど強力な回復薬だったに違いない。瓶の中の濃緑色の液体を飲み干して半時も経たない内に、蒼白だった魔導士の顔には血の色が差し、焦点の合わなかった視線も定まってきた。その様子をじっと見ていた女性が、ローザに向かって頷く。
「もう、大丈夫ですわ。治療を続ければ、ひと月も経たない内にすっかり良くなります」
「そうか……」
ローザが女性に向かって頷きを返す。
「すまないが、少しばかり席を外してくれるか。グリモーと二人で話がしたい」
「わかりました。お済みになりましたらお呼びくださいませ」
一つお辞儀をした女性が、背を向けて戸の外へと出ていく。その後ろ姿をじっと見送ったローザは、足音が聞こえなくなる頃になって、ようやく魔導士の方に向きなおった。
 その時にはもう、その顔に先ほどのような柔らかい表情は無かった。魔導士の両肩に置いた手にそれほど力はこもっていなかったが、その面持ちは恐ろしいほど固い。
「教えてくれ、グリモー。誰がお前を刺した? 何を見た? 姫様が部屋から消えた。私には嫌な予感がしてならない」

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君はずっと待っていた。目の前の娘が目を覚ますのを。
君は何もせずに、ただずっと待っていた。身動きもせずに。
ナイフを握りしめた手が震えていた。関節が白くなるほど力を込めて。
白い喉が、刺してくれと言わんばかりに明け透けにされている。
美しい娘だと思った。見たこともないほど美しい娘だ。
蒼い、夜明けの海の色の瞳をしていた。暁の、海と空との淡い境目を思わせる色だ。
殺してしまえと声が聞こえる。殺してしまえ、そうすれば楽になる。
まるでひどい呪縛のように、その声が耳に纏わりついてくる。
そして君には、それを振り払う力すらもない。

君はずっと待っていた。目の前の娘が目を覚ますのを。
君は何もせずに、ただずっと待っていた。身動きもせずに。
君は娘に声をかける。耐えかねて、娘に声をかける。
しかし、娘は目を覚まさない。娘は身じろぎすらしない。
仕方がないことだと思った。まったく、仕方がないことだ。
もう一度声をかけてみようと思った。
もう一度声をかけて、それで目を覚まさなければ、その時に殺せばよい。

ragnarok.6

「だから、僕はどこにでもいる」
猫は言った。
「つまり、僕はどこにもいない」
猫は言った。

 顔に吹き付ける風が、凍るように冷たかった。
 王女がいないのに気付いて城が火のついたような騒ぎになった頃、王女と男は既に国を取り巻く巨大な城壁を越え、広大な草原を続く一本道を駆けていた。正確に言えば、駆けていたのは男一人だ。王女はまるでたっぷりと中身の詰まった小麦袋のようにして、走る男の右肩に担がれている。
 よく晴れた夜だった。夜空にかかる満月からはさらさらと音を立てて光がこぼれおち、蒼い空の中を星がいくつも尾を引きながら、緩やかに流れていく。
 細いとは言っても女ひとりの身体だ。それを担いでいながら、男は顔色一つ変えず、息一つ乱さなかった。夜の草原の中を、魔物のように、風のように駆け抜けていく。草むらに隠れた虫たちの鳴き声が聞こえる。夜露に濡れた草のにおいがする。
「ねえ」
 突然王女に話しかけられて、男は走りながら煩そうに振り返った。
「なんだ」
「名前は何と言うのですか」
「名前」
まるでとてつもなく面倒なことを訊かれたかのように、男は嫌な顔を隠そうともせずに言った。
「そんなことを訊いて何になる」
「だって、名前がわからなければ貴方のことを呼ぶことが出来ないわ」
王女が困った顔をする。ひどく呆れた様子でため息をついて、しばらく思巡した男は、やがて次のように言った。
「なら、ヴァンツァーと呼んでくれ」
「ヴァンツァー。それが貴方の名前」
ふっと月明かりが翳った。その時ばかりは虫の鳴き声も聞こえなかったように思う。まるで裁決を告げる裁判官のように厳かな口調で、王女は呟いた。

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その時こそ君は気付くだろう。待ち焦がれていたものが、今、目の前にいることに。
背の高い死の顔を振り仰いで、君は嘆願する。
「さあ、お願いだ。どうか、連れて行ってくれ」
だが、彼は首を縦には振らない。それどころか、君のことを追い払おうとする。
君は驚き、喚き、怒り、泣き叫ぶ。しかし、為す術もなく追われる。まるで子犬のように。
君はベッドの上に、子供のようにむせび泣く自分を見つけるだろう。
それが、罪だ。そして、罰だ。横たわったまま、君はこう呟く。
もう、この夢を見るのは何度目だ。

「二十三度目」
 声が聞こえた気がした。気が付くと朝陽が差す中、アマリアは硬いベッドの上に横たわっていた。何時の間に眠ってしまったのか、彼女には見当もつかない。窓から差し込む日が眩しかった。人々の雑踏が、市場の喧騒が、まるで遠く響く夢物語のように聞こえる。
 ぼんやりと薄暗い部屋を見渡していたのも束の間、じっと椅子に座っている影に気づいて、アマリアは慌てて身を起こした。男は気だるそうに背もたれの上に両腕を乗せ、更にその上に顎を乗せて、深く考えごとに沈む人のように、半目を開いたままの様子でそこにいた。明るい太陽の下で見てみると、思っていたよりもかなり年若いことが分かる。ともすると、王女と同じくらいの年齢かも知れない。
「ヴァンツァー」
 アマリアがそっと呼びかけると、彼はようやく顔をこちらに向けた。その目がひどく穏やかなことに彼女は驚いた。夜半に見せたような紅く鮮やかな光を失い、ひどく穏やかで、まるで悲しみの底に沈んでいるように見える。
「ようやく起きたか」
「いつの間にか眠ってしまったの。迷惑をかけてしまったかしら」
「いや……」
 呟くようにして答えて、男は再び目を逸らした。銀髪が陽光を受けて、細かく輝いている。
「二十三度」
男は呟く。まるで呪文のように。
「二十三度、声をかけて、そしてお前が目を覚ました」

卑怯者。

学生食堂を出てすぐのところ。
かさりと音がしたので僕がそちらに目をやると、ちょうどそこにいた猫と目が合った。
どうやら捕まえたばかりの鼠か小鳥か、いずれにせよそのくらいの大きさのものを嬲っていたところだったらしい。
僕はしばらく猫から目を離そうとしなかった。猫のほうも僕のほうをじっと見たまま、そこから動こうとしなかった。
やがて続く沈黙に耐えきれなくなったのか、猫が言った。
「どうせ皆がやっていることさ。そんな目で俺を見るなよ」
僕は一つ頷くと、誰も待っていない下宿先への帰り路を急いだ。

ひとりごと。

 一人でいることよりも、一人でいられないことのほうが恥ずかしいと思うんです。

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